死神「彼岸」 男は、何も無い草原を彷徨っていた。グレーのスーツをしっかり と着こなした男は、しかし、その胸にぽっかりと穴が開いていた。 比喩ではなく、事実。彼は心臓を抉られていた。心が無ければ人 は生きていけない。そう。彼は既に死んでいる。 ここには何も無いと言ったが、それは確かではない。草原である 以上、草がある筈であり、また水もある。一面に広がる彼岸花。そ して、無辺を示す三途河。 気が付くと男は、河岸に辿り着いていた。其処には一隻の小船と、 その傍らに座る一人の少女。彼女は、男の姿に気が付くとゆっくり と立ち上がり、話し始めた。 「おや。こんな処に人間とは珍しい。ここに来れるのは、私ら死神 と魂だけなんだがね。いや、大丈夫。だからといって、あんたを殺 すようなことはしないよ。私はただの船守だからね。三途の河の此 岸と彼岸を結ぶのが仕事さ。ほら、そんな呆けた顔をしていないで、 船に乗りなよ。おおっと、流石に人間は重いね。あぁ、大丈夫。落 としやしないよ。これが仕事なんだ。ついでに船賃は後払いさ。三 途の河を渡った距離分だ。あんたは金を持ってそうな顔をしている ね。うん。それじゃあ出発するよ。どれくらい時間が掛かるかはわ からないけど、その間あんたの話を聞かせてよ。勿論、生前のね」 小船はゆっくりと進みだす。少女と、男の二人を乗せて。 一 娘が、交通事故にあったと私の耳に入ったのは、正に娘が私の目 の前に現われた時だった。救急車から下ろされ、ストレッチャーで 運ばれてきた娘は、ほぼDOA(到着時死亡)の状態であった。ど のように事故にあったのか、内臓はぐちゃぐちゃになり、全身の骨 は折れている。即死でなかったのが、娘にとっての不幸であろう。 その日の担当は、私と院長であった。院長は、娘の死を前にして いる私を見て、「さて、どうするね」と聞いてきた。答えるまでも ない。私は、首を横に振った。蘇生不可能。救命救急医の仕事は、 全ての命を救うことではない。全ての<救える>命を救うことだ。 院長は、間もなく絶えるであろう娘の顔を見て、首を縦に振った。 私の目の前で娘が奥の部屋へと消えていく。私は、全ての職員の 姿が見えなくなってから、その場へと崩れ落ちた。感情とは一時の 荒波。その激流に私の心は耐えることが出来ない。 娘を奪われた衝撃は大きい。早くに妻を失い、その後男手一つで 育てて来た娘の早すぎる死。居た堪れない気持ちが次から次へと私 を襲う。 やがて、奥の部屋の扉が開いた。院長が出てくる。院長は、私の 肩を一つ叩き、手で奥の部屋へ入るように促した。部屋の中央に横 たわっているのは、先ほどとは違い、綺麗な姿の娘だった。全身の 骨は整復され、おそらく内臓の位置も修正されているだろう。そし て、肌も正常な血色を取り戻している。まるで生きているかのよう に。ただし、その娘の体には生命反応はない。 エンバーミング。死体を修復し、生前と変わらない姿にする。日 本ではまだあまり普及していないが、欧米などでは広く認知されて いる。そして院長が得意とする技術の一つだ。死出の旅路くらい、 綺麗に逝かせたい、遺族ならば誰でも思う心情に答える技術。 「ありがとうございます」私は、院長に深々と頭を下げる。院長は、 一つ頷いて、娘の方に指を向ける。「さて、どうするね?」 私は、質問の意図が飲み込めずに、聞き返す。院長は肩を竦めな がらゆっくりと口を開いた。 「強い魂は、時として肉体と寿命を極限まで繋ぎ止める。そして、 この娘は今、魂が、僅かな寿命を結び付けている。だが、あと数日 もすれば肉体が朽ち果て、その寿命が完全に消えるだろう」 「ええっと、それはつまり、娘はまだ生きている、ということでし ょうか?」院長の言葉の意図が正確に掴めない。 「いや、この娘は既に死んでいる。生き返る可能性があるというだ けだ」 「生き返る……。あなたは先ほどから何を言っているのですか?」 「……ところで、事故を起こした相手は現われたのかな?」 「……!?」すっかり忘れていた。交通事故ということは、事故を 起こした相手がいる筈で、事故が起こってから数時間経った今でも、 その相手は姿を見せていない。院長が口の端を吊り上げた。 「さて、どうするね?」 二 院長の検案によると、娘の直接の死因は、交通事故ではないらし い。車による強い衝突によって重傷を負ってはいるが、それ以上に 致命的であるのは、頚椎の骨折であった。娘が発見されたのが、橋 の下であったことや、娘の髪の中から植物の葉が見つかったことな どから、娘は、交通事故にあった後、犯人によって橋の上から落と されたらしい、ことが伝えられた。 そう聞かされた時、私の心は煮えくりたった。犯人に復讐をした い。そう思うようになった。私が、院長にそのことを伝えると、 「医療者とは思えないね」と言いながら「だが、医療者も一人の人 間だ」と笑いながら言った。そして、一人の少年を部屋に呼ぶ。入 ってきたのは、奇妙な恰好をした少年だった。先ず目に付いたのが 手に持っている巨大な鎌。そして、黒いマント。一目で彼が死神で あることがわかった。 死神。その存在は常識として知っている。国家の治安保持として 警察以外に存在する権力。命を刈る存在。元々は死者を三途の河原 まで案内する存在だが、最近は、死を目前とした存在を殺すことも しているらしい。 「どうも。僕は彼岸。この地区の担当の死神です」 少年は、ぺこりと頭を下げる。私は、どうも、と挨拶を返した。 そして、直ぐに院長に聞く。「これはどういうことですか?」その 質問に院長は答えず、代わりに彼岸と名乗った少年が答えた。 「……悪は裁かれるべきです。今回の案件は、特別措置の対象とな りました。死神裁量、つまり僕の裁量ですが、による生殺与奪権が 発生します。今回の件の犯人は、ここ数日発生している、連続ひき 逃げ事件と直接の関係がある可能性が高く、量刑加算で、死に値す ると判断。――故に、僕が殺します」 「……」私は、言っている意味が飲み込めずに沈黙する。いや、何 を言っているのかはわかるのだが、あまりにも現実離れしていて、 内容を理解できない。そして、最後にさらっと言った、言葉が私の 理解を一層苦しめた。 「理解できたでしょうか?」彼岸が聞いてきたので、私は、いや、 と答えた。すると、今度は院長が前に出て説明する。 「つまり、今回の事件の犯人を、彼岸が殺す、と言っている」 「いえ、それはわかるんですが、それは越権では?」 「特別措置なので」彼岸がさらりと言った。 「あぁ、そうですか」私は、曖昧な返事をした。 「ここまで理解できたのであれば、次です。今回の事件の被害者、 つまりあなたの娘さんですが、は現在死亡していますが、まだ寿命 が残っています。しかし、その寿命は肉体の崩壊を止めるに足りず、 もう間もなく、おおよそ数日の内に、完全に消えてしまいます。そ の為、救済措置としては寿命の注げ足しを行わなくてはなりません が、その寿命として、犯人の寿命を使います。その承諾を」 また意味がわからなくなってきた。つまり、犯人を殺して、代わ りに娘を生き返らせるということで良いのだろうか? 「まぁ。大体そういうことです」 それならば、願ったり叶ったりだ。私は、直ぐにそれを承諾した。 彼岸は、頷き部屋から去っていく。 間もなく院長も部屋を出る。 「死とは浪漫に溢れている。今度の死は、何を見せてくれるのか」 三 彼岸という少年は、奇妙な少年であった。いや、奇妙な死神であ った。人を殺すという行為について、独特の見解、見ようによって はずれているとも思える思想を持っている。 私は、彼岸と行動を共にすることになったのだが、彼は、明らか に死に掛けている、寿命が殆ど無いであろう、人間を殺めることは 決してしない。それどころか、私と行動を共にしてから、彼はまだ 誰一人殺してはいない。 「死神というものは、毎日のように人を殺すと聞いているが」 私は、ついに、彼岸に対して聞いてみた。彼は、表情を曇らせな がら、「人殺しは業です。僕達、死神はその業から解放されてはい ますが、やっていることは変わらない。出来れば殺さないのが無業 でしょう」 「それでも、私の娘の仇は殺す、と」 「罪は罰せられるべきです。僕も、殺し以外で裁きたいのですが、 如何せん、罪が重すぎる。……已む無き決断です」 「已むを得なければ、殺しても構わない、と」 「違いますか?」そう答えた、彼岸の目には、迷いや逡巡といった 感情は無かった。その目は、どこか手術台の前の医師に似ている。 「……なるほど」私は、頷かざるを得なかった。 「それと、今回の対象は、あなたの娘の仇という訳ではありません。 確かにあなたの娘を殺した犯人かもしれませんが、それは容疑の段 階で確定ではありませんので。あと、僕の視点からすれば、連続ひ き逃げ事件の犯人であって、あなたの娘であるとか、そういったこ とは度外視しています。そのつもりで」 そう言って、彼岸はすたすたと足早に歩いていく。少し、内面に 踏み込み過ぎたか、と私はやや反省した。 * * * * * * 「なるほどねぇ。あの彼岸がそんなことを言うようになったのか。 それは面白いねぇ。いや、昔はさ、彼岸といえば殺さない死神って 有名で、どんな理由があっても絶対に殺さないんだ。殺さなかった、 って言うのかな。まぁ、どっちでも良いさ。とにかく、あの子が始 めて人を殺したのは、つい最近のことでさ。うん。いや、彼岸は私 の弟だから、それくらいのプライバシーなんて無い無い。そうだね。 覚えてるかい。今から数ヶ月前に起こった連続殺人事件。そうそう。 その事件。いや、違う。彼岸が殺したのはその犯人じゃないよ。い や、取りあえず話は最後まで聞くもんだ。彼岸が殺したのは、その 時の被害者の一人。名前は……忘れたねぇ。本名では呼ばなかった からね。そう。あの時、施術した死神の名前をそのまま使ってさ、 黒猫、と呼んでたから。まぁ、ここでも黒猫でいいや。うん。彼岸 が殺したのは、その黒猫なんだよ。とはいえ、ここには深い深い理 由があってね。まぁ、あの子の言うところの罪を重ね過ぎたから、 かな。まぁ、黒猫は、アイツに嵌められただけなのかも知れないし、 それはどうかはっきりとはわからないけどね。いや、だからまぁ、 彼岸が変わったのはそれからだけど、どっちにしてもまだまだ甘い ねぇ。さて、と、私の話はこれくらいにしておこうか。続きを、聞 かせてくれないかい」 * * * * * * 四 人というものは、存外簡単に壊れるものだ。それは肉体的にも精 神的にもどちらの意味でも。例えば、腕を切り落とそうと思えば、 腕と肩の連接部位、つまり関節を外せば事足りる。必要な道具はカ ッターナイフで充分だ。皮膚と筋肉を切り、その後、関節部の靭帯 を切断し、外す。それだけで簡単に人間は解体できる。 娘を奪われてから、私は時に犯人に対する復讐を強く願うように なった。元々、何かを切ったり貼ったりするのが好きで外科の道に 進んだのだが、実際に生きている人間を解体しようと思ったのは初 めてだった。存外に心は壊れやすいのだ。 彼岸という死神は、犯人を探し、彼自身が犯人を断罪するという が、私の心はそれでは収まりがつかなかった。私は、彼と共に行動 をする以外の時間。一人で犯人の情報を調べることにした。どちら にしても娘に残された時間は少ない。これくらいの作業は当然だろ う。 幸いなことに、私にはその筋に詳しい知人がいる。大学時代の同 窓で、ひょんなことから道を踏み外した男だった。私は、彼に連絡 をとり、連続ひき逃げ事件についての情報を募った。 裏情報というものはその筋の人間が扱えば、実に簡単に手に入る。 その精度の見極めも然程難しくはない。要するに、高い金を出して 貰った情報が正確で、ケチった情報は不正確だ、ということに注意 すればいい。 つまり、今回の事件の犯人は簡単に絞ることが出来た。ただし、 1人ではない。3人。私はそれぞれの人間に聞き込みを行うか、と 考え、やめた。 ――いや、面倒くさい。全て殺せば良い。 心は存外に壊れやすい。 五 その夜。彼岸と合流した私は、日中に調べた情報を公開した。勿 論、彼らを殺すつもりでいることは。伏せている。彼岸は、そのリ ストを見ると、マントの中からファイルを取り出して中身を見る。 そして、小さく溜息を吐いた。 「よくもまぁ、ここまで調べましたね。この3人目の人が今回の対 象です。まったく僕の仕事を無駄にしてくれる」 彼岸はファイルの一部を指差しながら、私に見せてきた。 「知っていたのか?」 「対象がわかったのは、今日の午前中です。情報屋が渋ったので、 少し遅くなりましたが」 彼岸はそう言って、ファイルを元に戻した。死神にも情報屋がい るんだな、と感心していると、彼岸が鋭い視線をこちらに送ってく る。 「なんだ?」 「これから対象のもとに向かいますが、一応釘を刺しておきます。 もしもあなたが、対象を殺した場合、あなたの命も奪います」 復讐はさせない、ということらしい。私は、考えを先読みされて いたような薄気味悪さを感じながら、頷いた。 六 犯人は若い男だった。それなりに高級なマンションの中堅クラス の部屋に住んでいる。車は、駐車場で確認したが赤いボルボ。男の 年齢が23であることを考えると、親の七光りか。 私は、懐に隠した狂気を押し隠す。 彼岸がドアのチャイムを鳴らす。 返事は、ない。 彼岸がもう一度ドアのチャイムを鳴らす。 やはり、返事はない。ある筈がない。 彼岸が私の方をちらりと見る。 私は頷いて、ドアを蹴破る。 ドアは、簡単に開いた。初めから鍵は掛かっていない。 部屋に入った途端、嗅ぎ慣れた異臭が鼻を突いた。 死臭。血と肉の臭い。 彼岸は慌てて奥の部屋に入る。 私はその様子を玄関で見送る。 この部屋に人間は一人も居ない。 あるのは、ただ死体のみ。 七 彼岸と合流する以前に、私は、3人の候補全てを殺していた。ナ イフで心臓を突き、絶命した後に全身を解体する。熟練した外科医 であれば人間の解体にはたいした時間は掛からない。 しかも、隠蔽の為の解体ではなく、見せ付けるための解体。その 手段は芸術的に、しかし雑になる。 3人を解体した後、私は、彼岸と合流した。つまり、釘を刺され た時には既に、私の死は確定している。 部屋の奥から彼岸が戻ってきた。 その手には、死神の鎌が握られている。高く振り上げられ、私の 体に振り落とされた。鈍い音。私の心臓がくり抜かれる。 そして、私の意識は遠くへと飛んだ。 * * * * * * 「あんたも馬鹿なことをしたもんだ。そのまま彼岸に任せておけば 良かったのにさ。そうすればあんたが死ぬことはなかっただろう に」 「そういう訳にはいきませんよ。殺されたのは私の娘です。自分の 娘のことに他人が介入するのは許せませんね」 「とはいえ、無関係の人まで殺したのはどうかと思うけどね」 「いえ、それが無関係ではなかったのですよ――」 * * * * * * 八 私が、1人目の家をたずねた時、意外にもその男は、あっさりと 私を迎え入れた。連続ひき逃げ事件のことを話すと、その詳細を楽 しげに語り始めた。 「連続ひき逃げ事件は、1人の犯行じゃあない。あれは僕たちの ゲームだ。何人殺せるか。車っていうのは実に強力な兵器だよ。町 の中だと戦車に匹敵するんじゃないかな。まぁ、取りあえず僕たち は、そうやってひき逃げゲームをしてきたんだ。あの人をはねた時 の感触がたまらないね。僕は、そうだな中年のオヤジの感触が好き だな。あの脂肪と筋肉が良い感じに混ざった感じが良い。跳ねたっ て感じがするからね。そういえば、子供を跳ねるのが好きな奴もい たなぁ。そうそう、このリストの3番目。しかし、よく調べたね。 まったく、あぁ。ちょっと待って、帰ろうとしていないかい? 駄 目だよ。ここまで聞いて大人しく帰れる訳がない。うん。轢き殺す のが一番楽しいけどね、あんたはここで消えて貰う」 そう言って、男は拳銃を向けてきた。銃身は確実に私を捉えてい る。私は、首を振って口を開く。 「一応、教えておこう。お前の胸には、ナイフが刺さっている」 男は、その言葉につられて自分の胸を見た。勿論、そこには何も 無い。ほんの一瞬前までは。 男の心臓にナイフが突き立つ。そのナイフを引き抜くと、鮮血が 迸る。出血多量。死亡までは刹那。私は男が生き絶えるのを待って、 解体に移った。 * * * * * * 「ははぁ。なるほどね。確かに無関係ではない,か。おや、岸が見 えてきたようだね。あそこにいるのは、あんたの娘さんじゃないか、 それと彼岸もいるね。あとその横のもっさりしたのは――。ああ、 お代は要らないよ。どうやら今回は此岸から此岸に来てしまったら しいね。全く私には何が何だか全然わからないよ」 そう言って、少女が男を岸に下ろすと、男は娘の傍らに立った。 その横には1人の少年と、男には見慣れた男性が立っている。 「院長。これは一体?」 「特別措置です。娘さんの蘇生にはあなたの寿命を使いました。そ して、今回のあなたの罪状は対象達の罪と相殺した結果、ほぼ帳消 しになったので、命を完全に奪うまでには至りません。ただし、あ なたには、これから死神としての仕事が与えられます」 院長と呼ばれた男性ではなく、その横の少年が代わりに答えた。 (完) あとがき ああ、はい。終わりです。 シリーズ化しようと思ったら、作品単体では意味不明な感じでも 良いんじゃね? とか思ってきましたよ。結局全部のシリーズでま とまれば良いんだし、とかぬるい思考で。 お粗末さまでした。