三途の河は、広大な河だ。此岸から彼岸までの距離は、一体どれ
ほどあるのか。もっともこの河の幅は、魂によって変化する。善人
の魂ほど、幅は狭く、悪人の魂ほど幅は広い。
 だが、それは人間の魂の話。死神が三途の河を渡ることになった
としたら、その距離は、一体どうなるのだろうか。
 答えは――無限である。
 永遠に彼岸に辿り着くことはない。だから、私たちは、特別措置
として、三途の河に辿り着いた死神を、船から叩き落すことになっ
ている。
 三途の河とは、牢獄である。そこに生物が住まないのは、此岸と
彼岸の境界である、という理由以外に、もう一つ理由がある。この
河は、浮力がないのである。つまり、ここに落とされると、ただ沈
んでいくのみだ。
 ついでに、私たちの使う船は、浮力によって浮いているのではな
い。死神独自の技術によって浮かんでいるのである。

 それはさておき、私の元に一人の死神がやって来た。

「ひさしぶりね。覚悟は出来てるかしら?」
「ああ。君に落とされるならば本望だ」
 彼は、昔のように気障な言葉で私に微笑みかけた。
「生憎と、あなたは勝手に堕ちている。そこ、勘違いしないでね」
「言うねぇ」
「これでも、あなたには感謝しているのよ。立場が逆になっていた
かも知れないしね」それは本音だった。もしも彼がいなければ、私
が今、彼と同じ状況になっているかもしれない。
「そうかもしれないね。まして君や君の弟くんは、僕たちとは少し
事情が違うからねえ。まぁ、それでも同じか」
 彼は船のヘリに立った。
「待って。僕たちと違うって、どういうこと?」
「それは僕の口からは言えない事だ。だが、君の弟は、まもなく狂
気の渦に呑み込まれる。それだけは、確実だ。では、鈴。ここで僕
という存在は幕引きだ。幻かも知れないが、僕は君の事を気に入っ
ていたよ」
 ドボン、と言う音が辺りに木霊した。彼が船から飛び降りたのだ。

 その響きと、彼の最後の言葉が私の耳に残響する。
「僕たちとは違う」その真意は一体――。



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「先生よぉ。お嬢ちゃんにはまだ言ってないのかい?」
 薄暗い病院の一室で、若い男が目の前の白衣姿の男性に聞く。男
は、如何にも軽薄そうな風体で、しかも、当然のようにソファに深
く腰掛けていた。対して、白衣姿の男性は、貫禄のある、それでい
て上品な感じのする服装である。その男性が、男の問いに答える。
「まだだ」
「だろうね。さっき様子を見てきたが、ありゃあ相当参ってるね」
「彼は、最後の最後まで鈴に迷惑を掛けた、か」
 苦虫を噛み潰したような表情をする。
「迷惑ねぇ。まぁ、アチラさんの意思だし仕方ねーんじゃないの」
「そう悠長なことも言っていられるまい」
「へいへい」
 男は、まったく気のない返事をする。
「まぁね。アチラさんの方で動きがあったみたいだぜ」
「……知っている」
「で? どうすんのよ。悠長なこと、言ってられないんだろ?」
 男は、へへへ、と笑いながら言った。それに白衣の男性は、頷い
て、机の上の一束の書類を投げ渡した。男は、それを受け取る。
「……柊。この件は、貴様に一任する」
「良いねぇ。盛り上がってきた」
 柊と呼ばれた男は、ソファから立ち上がる。そして、ドアではな
く、窓の方に近づき、そこから飛び降りた。

 後には、白衣の男性が一人残される。
「恐怖を感じない人間は、既に人外……か」